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戦国時代末期、豊臣秀吉が小田原城の北条氏を攻めたことは大変よく知られています。その小田原城の出城の1つとして、戦国時代最大の出城であった、北条氏の関東の拠点、八王子城をご存知でしょうか。八王子城の城主は、4代、北条氏政の弟、氏照です。 「見事な戦いぶり、一騎当千の勇者だ。死なせてはならない。」 と前田利家、上杉景勝の降伏勧告の使いを家範の下へ向かわせましたが、果敢に身を挺してすばらしい戦いを繰り返した後、覚悟の上、最後のときを知った家範は、妻とともに自害して果ててしまいました。 |
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信吉は、家康の小姓になった後、慶応8年(1603年)に、伏見城に入った盗賊を捕まえました。また、慶応12年(1607年)、駿府城の火災のときに、機転を利かせ家康の第11子頼房の命を救いました。信吉の正直さや人柄から、家康の信任も次第に厚くなっていきました。 【寛永10年癸酉源威公(頼房)御世継未だ定まらざる以前に大樹(将軍)家光公より上意にて中山備前守丹治信吉水府(水戸)へ下り、御若君方を選び奉るに、長丸の君(光圀の幼名)熨斗(のしあわび)をお取与え備前守を爺と御呼びになられ候、其御気色万人に勝りければ備前守ただちに江府(江戸)へ登り言上を遂げ(家光へ報告)則御世継に定まる。】 |
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松岡城地が、中山信正に与えられた時期は、信吉が卒去して家督を継いだ寛永19年(1642年)後の天保3年(1646年)頃といわれています。御三家の一つ水戸藩は関東や東北の大名たちへの備えでした。そして、附家老中山家の松岡城は、その最前線にありました。もしも、戦になって攻められたときに、水戸や江戸での戦の準備をするための時間を稼ぐ矢弾よけとして、武勇に優れ信頼のおける附家老、中山家が配置されたものと思われます。他の御三家、尾張藩や紀州藩でも附家老の領地は藩領の一番外側に他藩と接して配置されました。 |
| >> 略年表で、以上の出来事を確認する。 >> 家系図で、中山氏と水戸家の関係を見る。 |