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中山は、南に名栗川、北は高麗川との間に隆起している台地です。奥田にて多峰主山の尾根と切断され、東方へなだらかな起伏を見せています。朝日山や阿須の台地と、高麗山塊との間に2つの川が東に向かって流れ、その中間に丘陵がうずくまった形をしており、中山という地名がつけられました。
中山家の系譜によると、宣化天皇の曾孫、多治比古王、その子嶋より出で、奈良朝時代には多くの人材が輩出しています。その中武蔵の国司として最初に任命されたのは、養老3年(719年)多治比縣守(嶋の子)です。弟の廣成は天平10年(738年)武蔵守となり、宇美・門成・石雄・今継(平安時代)其後任ぜられています。これらの人々の子孫が、次第に土着して土豪となり、自己の勢力範囲を保持していました。主として秩父・児玉・入間地方一帯に分布し、高麗郡へ進出したのは基房(秩父)の第5子経家(高麗)で、その子孫が中山氏、高麗氏、加治氏等を称するようになりました。
中山氏を名乗るようになったのは、経家13代孫とされる家勝のときで、中山郷に住み、在名を姓としました。 飯能市智観寺の東には、南面して中山館址の遺構があり、土塁や堀を廻らして、単郭式の館が設けられ、豪族が居住していました。
館を中心にして中山の発展の跡をたどってみると、丹生谷津や諏訪沢を水源とする2筋の小川の間に、まず南面して館が出来、ついで家臣団地とも言うべきものが、要衝のところに配置されました。更に家の子、郎党とも見られる農民の家が、大手口に交差する東西の道路に立ち並び、村落としての形態が次第に整えられました。
中山氏の系譜によると、家勝は上杉方に属し、河越夜戦に負傷した(天文15年)ことや、家範が北条氏政に従軍して各地に転戦した記録があります。
天正18年7月5日、小田原城落城後(同年6月23日、八王子城落城。中山氏列伝中山勘解由家範参照)、秀吉の命を受け、関東一円は徳川家康の有に帰し、家範の遺児照守・信吉は、ともに召し抱えられ徳川氏に仕えました。信吉は中山の近郷宅貫を采地として与えられました。慶長8年(1603年)伏見城において、刀を盗む賊徒を捕らえて功あり、これによって見出され、後水戸徳川頼房の養育と補佐に当たり、更にその子光圀を水戸家第2代の藩主に推挙しました。