松岡藩
松岡藩は、慶長7年(1602年)戸沢政盛が常陸国多賀郡および茨城郡の地で4万石を領したのに始まる。政盛は最初、茨城郡小川城を居城としたが、まもなく多賀郡下手綱の竜子山を修築して松岡城と改称し、ここを本拠とした。
元和8年(1622年)戸沢氏は、幕府の出羽方面大名統制の強化策のため同国へ配置替えとなり、新庄に移った。旧松岡領の内、南部3万石は水戸領に、北部1万石は赤館(棚倉)領に編入された。
したがって、松岡城もまた、水戸藩に引き継がれ、まもなく、附家老の中山信正に与えられた。
信正は、徳川家康からその子頼房に付けられた信吉の子で、水戸藩創設時代の功労者でした。中山家は水戸家の家臣ということにもなるが、その表高は2万石で、幕府から譜代大
名に準ずる待遇を受けていた。そのため、当時としては大名と同一視されるような一面もあった。
中山家は、信吉の後、この松岡城を居城とするが、宝永4年(1707年)信敏の代に久慈郡太田(常陸太田)に移った。
その後、水戸藩主治保の弟信敬が中山家を継ぐに及び、享和3年(1803年)再び松岡に復帰して采地を領知と称し、水戸藩の別高として支配し、館周辺も次第に城下町としての形態を整えていった。
明治元年(1868年)伸徴は、朝廷から藩屏に列せられ、正式に藩として独立したが、やがて版籍奉還となり、同4年7月には廃藩置県を迎え、松岡藩は松岡県になり、のち、茨城県となった。
>> 略年表で、以上の出来事を確認する
>> 家系図で、中山氏と水戸家の関係を確認する
|